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四代目 市川 米十郎(よだいめ いちかわ よねじゅうろう、生没年不詳)は、日本の俳優、歌舞伎役者である〔野島, p.116.〕〔キネマ旬報社, p.58.〕〔映画世界社, p.5.〕〔管家紅葉氏談話 、立命館大学、2013年5月28日閲覧。〕〔''市川米十郎''、''jlogos.com'', エア、2013年5月28日閲覧。〕〔''市川米十郎''、日本映画データベース、2013年5月28日閲覧。〕〔''市川米十郎''、日本映画情報システム、文化庁、2013年5月28日閲覧。〕〔''市川米十郎''、allcinema, 2013年5月28日閲覧。〕〔''市川米十郎''、日活データベース、2013年5月28日閲覧。〕〔''市川米十郎''、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年5月28日閲覧。〕。本名不詳〔〔〔。 == 人物・来歴 == 東京府東京市(現在の東京都)に生まれる〔〔〔。 旧制小学校を卒業後、六代目尾上菊五郎(1885年 - 1949年)に入門し、初舞台を踏む〔〔〔。「市川米十郎」の名は、四代目市川小團次(1812年 – 1866年)が初代という名跡で、『歌舞伎人名事典』によれば、この米十郎は四代目に当たるという〔。 歌舞伎界での将来を嘱望されていたが、映画界に興味を持ち、1928年(昭和3年)9月、牧野省三に招聘されて京都に御室撮影所をもつマキノ・プロダクションに入社する〔〔〔。入社第1回作品として、『掟』(監督押本七之助)に主演、同作は同年8月30日に公開されている〔。これに先行して同年3月14日に公開された『忠魂義烈 実録忠臣蔵』(監督マキノ省三)に出演しているとされ、東京国立近代美術館フィルムセンターが所蔵する同作のオープニングクレジットには、米十郎の名が「神崎興五朗」役で記録されている〔。1929年(昭和4年)7月25日、牧野省三が亡くなり、同年9月にマキノ正博を核とした新体制が発表になると、米十郎は、嵐冠三郎、荒木忍、南光明、根岸東一郎、谷崎十郎、阪東三右衛門らとともに「俳優部男優」に名を連ねた〔1929年 マキノ・プロダクション御室撮影所所員録 、立命館大学、2013年5月28日閲覧。〕。その後、新体制下のマキノ・プロダクションは財政が悪化し、1931年(昭和6年)6月、同社解散により退社した〔。記録に残る同社での最後の出演作は、1931年(昭和6年)4月17日に公開された『三日月次郎吉』(監督吉野二郎)で、同作は同社にとっても最終作品であった〔〔。 マキノ・プロダクション解散の半年後の同年10月、同社元専務・内藤富吉が設立した内藤プロダクションでは、『涙の故郷』(監督久保為義)に出演、同作は同年11月8日に公開された〔。その後は、当時新興キネマと配給提携していた嵐寛寿郎プロダクションで、同年12月13日に公開された『柳生十兵衛』(監督仁科熊彦)に出演、徳川家光役を演じている〔。翌1932年(昭和7年)2月には、高村正次と立花良介が御室撮影所に設立した正映マキノキネマに参加、『二番手赤穂浪士』(監督マキノ正博)に出演し、小山田庄左衛門役を演じた〔〔〔〔〔御室撮影所 、立命館大学、2013年5月28日閲覧。〕。同社解散後は、同年11月に高村正次が再び設立した宝塚キネマ興行に参加し、1933年(昭和8年)3月26日に公開された『孝子五郎』に出演した記録が残っているが〔、同社も1934年(昭和9年)2月には解散に追い込まれている〔。 その後の消息は伝えられていないが、1937年(昭和12年)に製作・公開されたとされる『出世太閤記 第一篇』(監督西藤八耕・石塚大造、製作・配給極東キネマ)という題のサイレント映画が現存しており、同作の上映用プリント等を所蔵する東京国立近代美術館フィルムセンターによれば、同作に米十郎も出演しているという〔〔出世太閤記 第一篇 、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年5月28日閲覧。〕。以降の出演歴は不明であり、消息も不明、没年不詳。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「市川米十郎 (4代目)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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